再現・伊勢湾台風「10人の証言」
小山
証言にはいる前にお断り。貴重な体験をお聞かせいただく上で、時間の都合もあり9人となった。ご了解いただきたい。
小山
石田みきおさん。印象に残ったのは、背丈を超える水を1歳を超える娘を背負って逃げたといいます。
石田
フイルムを見せていただき、あの当時のことが客観的にみれて感慨深い。当時、桑名市に住んでいた。木曽三川の揖斐川に面している。その近くの市営住宅に住んでいた。
土曜日、まさか昼ごろの状況では台風が大型だという情報はあったが、それほど大きいとは予想もつかなかった。情報は当時、テレビは高嶺の花で、真空管ラジオで聴いていた。桑名高校に勤めていたが、警報は早く出た。定時制の給食のうどんがあまったと喜んで持って帰った。久しぶりにゆっくり土曜の夜を過ごそうと、夕方銭湯に行った。途中から雨風が強くなった。8時ごろに、窓ガラスがしなって戻らなくなった。気が付いたのは、畳の上に水がしみてきた。おかしいなと。山国育ちだったので水が家の中にはいるのは奇妙な現象。
2階の敷居のところまで水が来たのを覚えている。雨粒が顔に当たっていたい。砂を投げつけられたくらいの痛さ。農家の2階に避難させていただいた。ドシーンという音がした。いつ倒れるか分からない。激しい雨風が収まった後、2階の屋根に出た。河原はなかった。月がものすごくきれいだった。満月が満天に浮かび、軒先までの水に月がきれいに写っていた。遠くから「助けてくれ」という声が聞こえた。ものほしの竹竿が沢山流れていて、それで助けた。堤防が切れたとたんに上から水が入ってきて家がバラバラに。棟木に捕まって80ぐらいのおばあさんがしがみついて流れてきた。息子たちが亡くなったと聞いた。
−教訓を最後に
天災は忘れたころにやってくるというが、余裕がある言葉。必ずやってくると考えるべき。阪神もトルコもあるが、いつどこでどんな形で来るか分からない。危機管理を心に持っておく。行政の救援、伊勢湾ではほとんどなかった。娘が兵庫区に住んでいて被災し、家がダメになった。3日は自力で生き延びる準備が必要。4日目ぐらいは行政の手が届くが。何とか生き延びるものの準備、心の覚悟が必要。1/17の阪神の時に、19日に娘が第3子を未熟児で神戸大で産んだ。電気はあるが水がないので生命の保証ができないと言われ、19日に連れに言った。水がないとトイレはひどいもの。娘の今までの生活で飽食とかの時代だったが、震災でシンプルライフが大事だと思ったという。話したいことはいっぱいあるが。
小山
次は、梶山和子さん。中2で遭遇。2階にいても水がどんどん上がってきて、いつ止まるのかと心配だったという。
梶山
川越村の海岸から1キロ西のところにいた。田圃が多いところ。昼に青空が見えて、次の日が運動会なので喜んでいた。夕方にひどい雨が降ってきて、時間を追うごとにひどくなり、6時過ぎに停電。木が折れんばかりにざわざわ。何か分からないけどものが飛んでいる。風の音がゴーゴーと一番怖かった。父親が会社から帰っていなかった。母と私と兄と弟の4人でろうそくを囲んでいた。不安になってくる。平屋の昔風の家。どだい石の上に柱が載せてあるだけ。大風で柱が動く音が聞こえる。家が壊されるのではと、いつ壊れるのかという思いがあった。ふわーっと家が持ち上がるような感じ。母が壊れるかもしれないと、頭から布団をかぶってちじまっていた。外が騒がしくなって立ち上がったら、土間からぴちゃぴちゃ音がする。火を掲げたら水がきらきら光っている。塩水だ、速く逃げねばと。まさか水害に遭うとは思わなかった。裏のドアがどんどんたたかれ、隣の家のおじさんが早くうちに来いと。わずか2分のとなりに行くまでに胸のあたりに水が来た。2階に上がった後も、足がふるえていた。言葉で言い表せない気持ち。水がどんどん増える。2階まで来るのではと。そんな心配しないでいいと言われたが、気が気じゃないので、水が止まるまで階段で見ていた。水が止まったときにはばんざいと言いたい気持ちだった。水が引いて行くまでは落ち着かない。寝ていても寝られない。朝になるのが待ち遠しかった。自分の家を見に行ったら、半壊で中はどろどろ。大きな家具以外はみんな流れていった。水道
はなく井戸水。母と3人で水を汲み上げ、きれいになるまで水を汲み上げてさらし粉を入れた。家中の洗濯をして消毒した。畳が重い。布団が濡れて重くて動かない。
隣の人が「ようけ死んだやろな」と言われたが、氏神さんのところに住んでいた先生が濁流で屋根の上に逃げたが、子どもが滑って波にさらわれ、乳飲み子も長時間雨に打たれて背中で亡くなった。奥さんはしばらく負ぶっていたが、氷をしょっているようなものでなくなく下に降ろして波がさらった。お宮さんに行くと、憔悴しきった先生。木にしがみついていたというが、まっくら2人きり。
父が四日市に務めていた。悲惨な様子を見てきて死んでいるのではと帰ってきて、助かっていたとものすごく喜んでくれた。
台風にあったことで逆に強くなった。近所づきあいの大切さが分かった。立ち向かう強い心も持てた。人の温かさも知った。ものを大切にしていくようになれた。私にとっては貴重な体験であったと思う。
鳴川まさえ(当時中3)
数年前までは歩いて5分の海は大変きれいで絵に描いたような白砂青松。名古屋からも海水浴に来る。優しい、遠浅の海があんなに荒れるとは思わなかった。家に早く帰れたのがうれしく、早く寝る用意した。全く無防備。犠牲者に寝間着姿の人が多いというのはあとで聞いた。水の勢いはものすごい、勝手口から水が入ってきたときには手遅れ。あっという間に床の上にはい上がる。あたふたと2階に駆け上がるのが精一杯。助けてくれというかすかな声が風雨に交じって聞こえるような気がしたが、雨戸を押さえていてどうしようもない。それまでに3度水難にあい、これで終わりかと思った。水が引いた階下に降りて胸のところまで竹の枠だけ。家具は泥だらけ、床も泥だらけ、玄関の引き戸がなくなって魚屋の冷蔵庫がこんにちはというようにそこにあった。何もかも使い物にならなくなった。5年前にリストラに会っていて経済的に苦しく、さらにどん底。進路決定の時期でもあった。ささいなことだが、母の写真が全部ダメになったことが思い出に残っている。自分を責めてもしょうがない。知り合いの中には、「なんでやねん」と不思議がるほど、せっせと2階にものを上げていたという。親戚の家で帰れなくなり、翌朝帰ったら家が流されていたという。さかのぼると、母が東京で方向に出ていて、脚気で実家に帰り、翌日に関東大震災があったという。天災とか人災にかかわらず、生死を分けるのは、大きな力があるのではと感じる。生かされていることを忘れて自然に逆らうと、自然が猛威を振るうのでは。
泳ぐとヘドロや重油がくっつくようになっていた。そういう怒りではとも思った。今は美しかった海は一部の人の記憶にしかない。堤防が立ち、埋め立てられて工場になっている。言いようのない悲しみ。友だちだったから。さまざまな試練をうけた。災害に対する備えは謙虚な人になることでは。戦争やいじめも同じことなんじゃあないかなと思う。「災害は忘れたころにやってくる」に付け加えて、まちがいなく神の恵みを忘れた時にやってくると思う。
冨岡きょういち(当時38歳 工場に当直中にあった。)
四日市の塩浜で精油所勤務していた。その夜、シャットダウン、定期修理で工場が1ケ月止め、従業員はみんな帰っている。当直と守衛だけ交代で残る。台風が来るのがラジオでわかった。すぐ停電になると思ったので、昔の海軍時代に鍛えられた「荒天準備かかれ」という命令を自分で気合いを入れた。とんでもないミスだったが、1階の事務室が総務会計労務。中が水浸しになると思ったので、引き出しを机の上に載せて
いった。やれやれと思ったら水が入ってきた。水が引いてから下に降りたら、机のバランスが悪くなって全部書類が流されていた。大失敗。今初めていう。東洋最大の精油所だった。バスも乗用車もダメ。消防車は動けるので、組合員の家に走って出た。近鉄の塩浜の前を回って走ったら、空き地と道路が水浸しで分からなくなっていて、消防車の助手席に乗っていて、運転を間違って横倒しになって放り出された。真横に落ちたから助かったが、悪運が強かった。富州原の社宅には私が1週間前に入っていた。堤防やられたが、天井と柱しか残っていない。もう少し住んでいたら、家族も愛犬「クロ」もやられていただろう。
−−貴重な体験の中で「荒天準備」?
海軍航空隊で航空機に乗っていた。海の上を飛ぶときに、嵐が来そうだぞいうこと。来るぞではない。早くから飛行機をしばっちゃう。格納庫はそんなにないので。全員で取りかかる。何でも最近は基本がマニュアルになっているが、慣れるとマニュアル通りではなく、裏マニュアルにもなって手抜きして東海村の事故になる。そういう危険性がある。指さし確認を未だにやっている。海軍で覚えた。声を出して計器を見ながら確認する。速度と風を確認する。きょうでもここにくるときにさんざんまよったが、「対向車あり」「横断者あり」と声を出してきた。女房は何をやっているのかというが。基本をしっかり身につけ、応用動作は手抜きはダメ。
消防救援隊
今までの方は直接災害に遭われた体験談。私は救援隊。救援隊は、比較的被害の少ない亀山で消防団、消防職員で結成。三重県消防協会が主として呼びかけた。亀山の消防団長が副会長をやっていたので、被災地の手助けをしなければと。1週間か10日後に現場に行ったと思っていたが、記録を見ると10月26日から救援が始まっている。1カ月経っていたのを初めて知った。
流木や家畜が浮いていた。一月建ってもあのままで地元の方が手が着けられない状態だった。ゼロメートル地帯なので、水も相当たまっていた。流木が5キロぐらいそのままになっていると聞いた。亀山から川之江村に行ったが、行くまではバス。案内されて、徒歩で現場に行った。行く途中にも所々ここで亡くなった人を焼いたということをきいた。普通なら盛大に弔うのだろうが、道ばたで亡くなった人を焼いたということは家族の方も忍びないだろうと思った。水に浮いていたり、打ち上げられている流木を、鳶口で引き寄せて整理した。
−−教訓は?
東海地震も出ている。備えあれば憂いなし。どれだけが備えかは難しいが、対策を立てておく。訓練をしておくことは大切かと思う。阪神大震災や日本海の油流出があるとボランティアが行かれて協力されており、非常に心強いが。私も、気の毒やなあと救援隊の一員として参加したが、私が救援隊を作ったわけではないが。少しでも役に立ちたいという気持ちで。
橋本あきら(自衛隊)三雲町の語り部
昭和34年は台風の非常に多い年。京都の大久保に連隊があった。鞍馬山で道路の土砂崩れの復旧に出動した。淀川堤防の外側の危険個所に土嚢積みの修復をした。かなり慣れたと思っていて、のんびりしていたら9月26日が台風。天気が良かった。出頭命令はおかしいなと思ったが、家族を残して向かった。桑名も四日市も知らない。大津から琵琶湖を抜けて四日市に入った。水がひたひたしている。「これが災害か」と言って、桑名まで来た。桑名高校に陣取って、伊勢大橋を超えて現地を見に行った。一面の海で堤防が切れていて、一体我々は何をやったらいいか。28日に現場に行ったが、これは水運びではとピンときた。小舟に水をいっぱい入れて積んだ。漁師のボランティアもいたが、水深が浅いので発動機を使わずにこいでいった。「おーい。水くれ」という声。2階の窓の手すりにくっついて、2人で押さえて水を渡した。バケツ、ナベ、やかん、洗面器で配った。もっとくれという人もいたが後ろ髪を引かれる思いで去った。小学校の校舎も途中が真っ暗でワニか何かも出てきそう。台風で死体を燃やす煙も上がっていた。2−3時間で帰ってくると、上陸すると牛や馬らの死体でいっぱい。どろどろの土。2,3日してから堤防の決壊場所の修復にかかった。何から手を着けて良いか分からない。最初はくい打ち、土嚢積み。最後まで締め切れずに10月10日に後続に託して帰った。木曽川の堤防がいつ締め切られたか知らないが、最近経験したことは、三雲町が13号台風で決壊して港が流出した。その時の人の証言、その当時は土木工事は雑だった。下は水で壊れていく。当時修復された堤防はしたがどうなっているか分からない。そういう心構えを持って災害に対して準備して欲しい。
−−教訓は?
さいがい、さ=さわがず、あわてず、い=いつも周到な準備を
して、が=(どんなくるしいことがあっても)がんばって、い=(さ
いごまで)生き抜いていこう
田端
国家的に前例のない災害が起きた。4月にご成婚でミッチーブーム。伊勢神宮に来られた。広報課=当時の県民室にいた。皇太子ご夫妻のご参拝でテレビが神域に入る。その世話で大変忙しかった。
夏休みもすんでやれやれ、職員旅行に飛行機で金沢に行こうといっていたら、昼前に警報が出た。警報の割に天気がいい。土曜日だし、遠いのは帰って良いと松阪に。疾風の台風が駆け抜けて、開けましたら良いお天気。ラジオで情報を聴いて夢中で出勤した。
県庁から200−300mの近くの橋のところで「やっとついた」という気持ちしか覚えていない。多分歩いてきたと思う。それからは、県庁中ひっくりかえすような状態。なるべく生々しい災害の写真をなるべく早く取って官邸や中央官庁にアピールするのが一番の仕事。下のものは大変な災害地に派遣された。行き帰りは自衛隊のジープに便乗している。私は、櫛田川、雲出川、名張川を担当。飯高町に行くのは松阪土木事務所のジープで途中まで行けるが、河原を歩くような県道を編み上げの革靴で歩いた。この前、櫛田川の写真を取った現場まで来るまで図ったら25キロあった。ジープ降りてから約30キロ、日帰りで写真撮って帰った。往復60キロ近く。つくづく、俺は学生時代長距離やっていてよかったなと思った。その後、雲出川に125ccの原付で行ったが、途中で決壊して行けなかった。名張川は、下流が木津川になる。合流する地点の橋が落ちていた。名張までも自衛隊のジープで市街地からは近鉄の鉄橋で渡った。線路を歩いて行った。広報の立場で取材した。
ともかく、道路は寸断され、鉄道が不通になる。最後は歩くしかない。それだけは確実にそういう事態になる。いくら便利になっても、ヘリ以外まず歩くしか手がない。究極の交通手段。確実にそうなる。土木で忘れていた中小河川の氾濫も伊勢湾台風の教訓。大河川はそれなりに管理されているが。このごろは、都市化で降った雨の行き場がない。田圃が遊水池だった時代でなくなる。一挙に氾らんする。
中西・日赤看護婦
現地に船では行った。救護活動は日赤の大きな柱なので訓練は受けていたが、水害、地震でも違う。正しい情報をキャッチするために携帯ラジオを持っていた。翌日に第1班が出張した。道路が寸断されているので大きな船で行きかけたが、途中から小舟に乗り換えて、木曽崎と長島町に来たときには、鶏や豚の死骸が浮いていた。水の中を見たら、稲穂や農作物が沈んでいた。それを超えて上陸した。救護所の開設場
所を探して設置した。まず、医師1、看護3(外科、内科、助産婦)、事務1で行く。自分の生活のことはそれ以前にきちっとして、仕事に専念するというのが赤十字。救護所を開設してもぼーっとした顔でうろうろしている。ショックで意識がもうろうとしていたようだ。救護員の水筒はお茶じゃなく、お湯か水をいれる。薬を飲んでもらうために使う。診療所を開設した。流木を集めて荼毘に付した。巡回して家庭を訪問した。傾いた家では窓から入って安否確認したりした。妊婦さんが異常を訴えられたが、出血、腹痛の症状は緊急入院にならないよう、安静の必要があったりもした。
経験を積んでおく。準備をしておく。より便利なものは活用すればいいが、当時は缶詰がやっとだった。最初の3日間がもっとも大事。泥水とか飲むと伝染病の恐れもある。水分補給は気を付けて。救護活動の長期編成、交代も考えねば。自動をまとめてあずかって救護班が行ったこともあった。対策についても考えておく必要がある。
伊藤(長島町防災係長)
当時の役割は、消防防災係長だったので、災害対策本部での命令の地域への伝達、地域への伝達、消防団への伝達、水防活動の本部への連絡をやっていた。今のように電話が豊富にあるわけではない。町内で有線電話が7−8カ所しかない。台風で切れたら連絡の方法がない。決められた方法、時間で人手で連絡をとっていた。大きな災害だったが、あらかじめ大きな台風だと聞かされていたので、消防団を町内各所に配置して堤防の警戒、連絡の役割をもたせて頑張った。
周囲はどこが切れても洪水になる。今はスーパー堤防で安心できるが、当時の海岸線は5.5m、地盤沈下も知らなかった。今の町内で、最高水位が庁舎前や各地域に掲げている。長島町でも2階建てのうちの天井まではいる。2階以上にいないと助からないのが現状。それを前提に考えねばならない。今はテレビで詳しくなっているが、防備する方も準備できるが、当時は大きいということは聞いていたが、町内全部に堤防が決壊するということは土壇場まで期待ばかりあった。現実にあのような大きな災害となった。対応が十分でなかった。
そういうことを頭の中に入れて、当時のことを申しあげると、現在の長島温泉の跡地?、私の出身なので6時ぐらいまで詰めていたら、土嚢の材料もないと、3輪自動車などで荒縄とかますを積んでいった。堤防上では15分で行くところを、農道を通っていった。のりの材料がたおれていて1時間以上かかった。消防団だけでなく、地元が協力してくれた。輪中が一つの島。悪いところはみんなで阻止する。作業を進めていたが、土嚢や石ころも海に吸い上げられる状態になってきた。これではひどいと、堤防が切れるので本部に知らせると、作業を止めて高台に避難しろ。町内、堤防より高い家はない。何かにつかまらないと吹き飛ばされる。当時土地が古かった高台にほとんどが集まった。1件の高台にあった雑貨屋の電話。なかなか聞こえない。堤防が切れる、早く避難させろと言った。どこの神社でもお寺でも鐘を鳴らすことになっていたのが慣習。本部が海岸から4キロ離れているので、危機感はなかった。堤防が切れるのは本当かと疑う。その間に電話が切れた。どんどん避難してくる。各家庭は避難するようにといって支所に行った。ロープにつかまりながら、ローにして堤防にきたら堤防を超えて流れてきていた。もう今しか通れないと来たら、大きな電柱が堤防に横倒しになった。車を捨てて、子どもは大人の腰のひもにぶら下げた。もたもたしているうちに大きな波に浮き上がって流されてしまった。
−−何を大事にしなければならないか
直接住民に対応するので当然だが、警報の段階できちんと戸締まりさせ安心させ、避難の指示もきちんと、老人、子どももできるだけ早く。2階以上の建物は全部避難所になっている。温泉のお客さんは早く帰す。携帯ラジオなど必ず持つ。単独で行動しないで、複数で。どんなことに直面しても、冷静に考え、いきり立って飛び込んでいかない。大勢の知恵を集めてロープをつないだりして助ける。2,3日の食糧は自分で持っておく。生き残ったもの通しが知恵を持ち寄って生き残る。土壇場の時は独自で考えられるよう、各家庭で対応してもらえればと思う。人ごとに思わず、もう一度自分の家だったらどうしようと考えておいて欲しい。
|