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開会挨拶

阿部実行委員長

 本日は遠いところでは北海道から島原まで大勢来ていただきました。率先市民みえサミットを始めたいと思います。
 三重の8つのVグループと、ハロボラ、日赤の三重支部、三重県社協、三重県、鈴鹿市のさまざまな皆さんによる実行委員会で本日までやってきた。ここに集まった全国の皆さん、率先市民でこういう場を設けられたのは大変うれしい。言いたいことはいっぱいあるが2,3を。市民が自分たちで企画しようとやった。
 幸い、日本で第1線の実践家がボランティアで参加していただいたことは勇気づけられた。県や鈴鹿市にはたいへんな協力をいただいた。林さんから10分の1の費用でできている、その9割がNPOだと言われた。
 近代防災のスタートが伊勢湾台風、阪神大震災で社会構造を見直そうとボランティア元年も生まれた。地域とともに全国ネットを結ぼうという願望があった。
 実際は簡単ではない。災害はふるさとの数だけ顔がある。それぞれ、阪神だけが災害ではない。それぞれの顔をした災害、土地土地で仲間を増やしながらゆっくりと気長に全国のネットを張っていこうと考えたことがこの開催の第1点。
 伊勢湾台風40年でお話をすると、1時間でも2時間でも聞かせていただける。これを市民という視点からもう一度振り返って災害を風化させずに、記録に留め、次世代に渡しておきたいと思ったのが第2点。
 第3点目が、本日のメインゲストの林さん、重川さんが、阪神での研究をされ、なにが阪神の人と災害の関わりで問題になるかと。神戸市で消防や自衛隊の人が人命を救助したよりも、市民が市民の命を救ったのは遙かに多い。
 いろんなボランティア論があるが、市民が市民の命を救う、災害に前向きに率先して向き合っていくことが、防災にとって大事だと思う。平野君が率先市民という大変良い言葉を考えてくれた。キーワードとして大会を開催したい。
 煎じ詰めると、人作りではないかと思う。知事からもボランティアコーディネーター養成の取り組みについてのお話もあろう。市民の力のつなぎ役を残していくのか、人作りを中心にしたテーマを皆さんと考えたい。ありがとうございました。

歓迎の挨拶

加藤栄鈴鹿市長

 遠方からもようこそ鈴鹿にいらっしゃいました。多くのご来賓をはじめ、ボランティアのネットワーク関係の方が鈴鹿に来られたのは光栄で心から歓迎したい。
 三重県で1300人の死者・行方不明者を出した伊勢湾台風から40年。私も当時鈴鹿市職員として経験した。復旧作業にも従事し、災害の悲惨さは脳裏に強く焼き付いている。伊勢湾台風以降も毎年多数の方が犠牲となっている。痛ましい災害の教訓を風化させず、次世代に伝える防災知識も重要。地域の防災は地域で守るのが原則。他の団体に頼ることも大事だが、自分たちで守るという基本姿勢で対応してもらいたい。
 防災期間が対策に力を注ぐのは当たり前だが、市民一人一人が意識を高め、隣近所の助け合い精神で。安心して暮らせる地域を作るために、このサミットは大きな意味を持つ。
 NPOの団体による活動が、私たちの行政ができないそんなところに取り組んでいただいたり、足りないところを補足していただく。ネットワーク化していくのは、新しい市民参加型社会、行政参加型社会を作っていくうえで重要。

全体会議 第一部


●伊勢湾台風を映像で振り返る
 NHKの協力で。

基調講演
「伊勢湾台風から学ぶ、水害対策の課題」
河田恵昭(京都大学防災研究所巨大災害研究センター長)
 40年、さっきのビデオ、9/23に桑名でシンポを京大防災研と三重県、中部地建でやったときにNHKで作ってもらった。その番組は、全国で500万人が見たという。阪神の前では一番大きな被害を起こした。忘れてはならない災害。サミットの話題のベースになるものを紹介したい。
 今年の台風18号が八代海から有明海を縦断して日本海に抜けた。上陸時に948hp、伊勢湾より10hp、吸い上げ10センチ、80mと強風の台風。台風は低気圧。930hp、80センチぐらい海面が盛り上がる。それよりも風邪による吹き寄せ、伊勢湾、東京湾、有明海、南西方向に海面が開いていると盛り上がって高潮となる。
 不知火町で12人亡くなった。満潮ではなく、1m低いところで発生した。平屋の屋内で亡くなり、11人は高齢者。高齢化社会を先取りした被害。松合地区は船だまりに大きな潮位が来て、両脇に水が溢れた。正面の堤防は被害を受けていない。
 船だまりは、漁船の渓流場所。両側に溢れた高潮が民家に流れ込んだ。91年に台風19号でも高潮でかん水した。速攻が水に浸かった程度の床下浸水。その後対策はしていない。江戸時代にはずいぶんあるが最近は対策をしていない。屋根の上におがくずがのっている。平屋のうちはほとんど流された。流出家屋は60数軒。2階建ての家は助かっている。平屋は屋内でなくなった。
 これからの災害を象徴するのは、JR博多駅から200mの御笠川。1時間に70mの雨。下水の整備率は50m対応で、これだけの雨では水浸しになる。上流の雨で満水状態。都市の雨をどこにも持っていこうがなく氾らんとなった。JR博多駅は低いところ。午前8時の映像だが、地下鉄、地下街に水が入り込んだ。博多駅前を中心に5万m水没。開店準備中のビル地下街で一人亡くなった。以前から指摘されてきたが、具体的被害がないと対応策をとらない典型。
 呉と広島市佐伯区。24人が土石流でなくなった。広島県は風化花崗岩が一番多く分布している。2番目が岐阜県。まず広島は大災害を発生させるポテンシャルを持っている。今回も3時間で200m降っていない。この程度の雨はいろんなところであり得る雨。広島では50−60年たつと表面から2mぐらい風化し、砂場の砂になり、雨が降ると流れ出す。
 雨量分布に載ったところで災害が起きる。広島はこういったことがどこでも起こりうる。住民が理解しないと被害を免れない。国内で17万ケ所。建設省や都道府県が対策を立てているが、危険値に新しい住宅地が展開している。いたちごっこが今後も続く。
 昨年から今年にかけて、河川災害が発生した。那珂川では河川改修をやった上流と下流で溢水した。典型的な起こり方。新潟では、天然ガス採取で地盤沈下。採取が終わった後、融雪のために地下水組上げでさらに地盤沈下。高知の水害は、30年間都市化が進み、水田が住宅化したところ。豪雨でかん水した。市街化調整区域であり、県立美術館が特例として建設が認められたところだが、そこが2m水没した。一夜
開けたら美術館が水族館になったと言われる。
 警戒水位を突破した一級河川(109)のうち96、今年は80水系が突破。水防活動に17万6千人。1時間に100m、昨年4、今年9、高齢者の死亡が多い。100m超の豪雨が全国的に降り始めている。
 18号の高潮被害は、福岡、鹿児島、佐賀でも起きていた。2mを超えるもの。たまたま人的被害は不知火町。他は避難が早く人的被害がなかった。
 流域の都市化が背景。雨がすぐ川に出てくる。国、県、市の連携の欠如。水防は市町村だが、県がやるとの誤解もある。水害が起きていないので行政対応がぎくしゃくしている。橋がウイークポイント。堤防の木が洪水で流されて橋桁につかまり、水の流れをせき止める。小さな川の洪水の原因に増えている。遊水池、湿地帯、河道に被害。
 温暖化もあって、このトレンドが続くだろう。スーパー堤防という幅を持つ堤防が利根川、淀川で整備されている。これをすべての1級河川で整備するのには100年かかる。間に合わない。都道府県知事管理の2級河川はどうするのか。治水に対する新しい考え、水系という木曽、揖斐、長良は別だが、1水系で対処できないのでは。
 流域開発で宅地が増え、雨水を浸透させず、ダム建設が困難になり河が洪水を流す能力が落ちる。氾らんが起きる。
 土砂災害も、風化が経年的に進行すると、地価が安いので宅地造成される。危ないと言われているので、宅地が開発され、地盤の抵抗力が減少し、少しの雨で土砂災害。そこは安全になるが、50−60年たつと災害の元になるものが増えて雨が降って災害となる。
 水害、高潮、津波を防ぐにはどうしたらいいか。高齢化社会に入っていて、大木など僕私説でシャットアウトするのは難しい。お金ができるだけかからず、効果的な方法で被害を小さくすることを考えねば。

1: 水害常習地帯と都市化(歴史情報)。ハザードマップで電話帳に赤色地図を公表。ハワイではやっている。新しくもろくなっているところも把握される必要がある。過去だけでは不十分。
2: 超過洪水対策(警報発令システム)。最近の雨の振り方は異常。少しずつ増えて警戒、危険となって、避難命令となる。水位を見ていると遅い。新湊川では10分で1/7m水位が上がった。水面監視だけでは時間的余裕がなく無理。
3: 避難勧告(高齢者対策と基準)。なかなか安全なところに逃げられない高齢者ら。3時間以上前に出す必要が出てくる。直前では許されない。
4: 土砂災害(判定基準と風土情報)。雨の振り方で、土砂災害が発生するかどうかの判断ができる。住民が理解しないと。雨量のモニタリングだけでは大きな問題が出てくる。
5: 地下空間水没(警報伝達と名称改正)。500万m、昔洪水が起きたところに多い。対策が考えられていない。
6: 河川改修事業(情報公開)。被害があったところを対策すると、安全だったところが相対的に危険になる。そういう情報開示が必要。
7: 既往最大の誤解(被害想定)。ここ数十年ないと、起こらないと思いこむ。シーボルト台風で1万人が沿岸で亡くなっている。

※いろんな課題を投げかけている。40年前にも同じような問題があった。国は貧しく、やりたくてもできなかった。今は住民の方が災害が起きるのを忘れている。それによる被害が起こることを懸念している。私たち、子供たち、孫たちのためにきちっとやっていくのが重要。

再現・伊勢湾台風「10人の証言」

小山

 証言にはいる前にお断り。貴重な体験をお聞かせいただく上で、時間の都合もあり9人となった。ご了解いただきたい。

小山

 石田みきおさん。印象に残ったのは、背丈を超える水を1歳を超える娘を背負って逃げたといいます。

石田

 フイルムを見せていただき、あの当時のことが客観的にみれて感慨深い。当時、桑名市に住んでいた。木曽三川の揖斐川に面している。その近くの市営住宅に住んでいた。
 土曜日、まさか昼ごろの状況では台風が大型だという情報はあったが、それほど大きいとは予想もつかなかった。情報は当時、テレビは高嶺の花で、真空管ラジオで聴いていた。桑名高校に勤めていたが、警報は早く出た。定時制の給食のうどんがあまったと喜んで持って帰った。久しぶりにゆっくり土曜の夜を過ごそうと、夕方銭湯に行った。途中から雨風が強くなった。8時ごろに、窓ガラスがしなって戻らなくなった。気が付いたのは、畳の上に水がしみてきた。おかしいなと。山国育ちだったので水が家の中にはいるのは奇妙な現象。
 2階の敷居のところまで水が来たのを覚えている。雨粒が顔に当たっていたい。砂を投げつけられたくらいの痛さ。農家の2階に避難させていただいた。ドシーンという音がした。いつ倒れるか分からない。激しい雨風が収まった後、2階の屋根に出た。河原はなかった。月がものすごくきれいだった。満月が満天に浮かび、軒先までの水に月がきれいに写っていた。遠くから「助けてくれ」という声が聞こえた。ものほしの竹竿が沢山流れていて、それで助けた。堤防が切れたとたんに上から水が入ってきて家がバラバラに。棟木に捕まって80ぐらいのおばあさんがしがみついて流れてきた。息子たちが亡くなったと聞いた。

−教訓を最後に
 天災は忘れたころにやってくるというが、余裕がある言葉。必ずやってくると考えるべき。阪神もトルコもあるが、いつどこでどんな形で来るか分からない。危機管理を心に持っておく。行政の救援、伊勢湾ではほとんどなかった。娘が兵庫区に住んでいて被災し、家がダメになった。3日は自力で生き延びる準備が必要。4日目ぐらいは行政の手が届くが。何とか生き延びるものの準備、心の覚悟が必要。1/17の阪神の時に、19日に娘が第3子を未熟児で神戸大で産んだ。電気はあるが水がないので生命の保証ができないと言われ、19日に連れに言った。水がないとトイレはひどいもの。娘の今までの生活で飽食とかの時代だったが、震災でシンプルライフが大事だと思ったという。話したいことはいっぱいあるが。

小山

 次は、梶山和子さん。中2で遭遇。2階にいても水がどんどん上がってきて、いつ止まるのかと心配だったという。

梶山

 川越村の海岸から1キロ西のところにいた。田圃が多いところ。昼に青空が見えて、次の日が運動会なので喜んでいた。夕方にひどい雨が降ってきて、時間を追うごとにひどくなり、6時過ぎに停電。木が折れんばかりにざわざわ。何か分からないけどものが飛んでいる。風の音がゴーゴーと一番怖かった。父親が会社から帰っていなかった。母と私と兄と弟の4人でろうそくを囲んでいた。不安になってくる。平屋の昔風の家。どだい石の上に柱が載せてあるだけ。大風で柱が動く音が聞こえる。家が壊されるのではと、いつ壊れるのかという思いがあった。ふわーっと家が持ち上がるような感じ。母が壊れるかもしれないと、頭から布団をかぶってちじまっていた。外が騒がしくなって立ち上がったら、土間からぴちゃぴちゃ音がする。火を掲げたら水がきらきら光っている。塩水だ、速く逃げねばと。まさか水害に遭うとは思わなかった。裏のドアがどんどんたたかれ、隣の家のおじさんが早くうちに来いと。わずか2分のとなりに行くまでに胸のあたりに水が来た。2階に上がった後も、足がふるえていた。言葉で言い表せない気持ち。水がどんどん増える。2階まで来るのではと。そんな心配しないでいいと言われたが、気が気じゃないので、水が止まるまで階段で見ていた。水が止まったときにはばんざいと言いたい気持ちだった。水が引いて行くまでは落ち着かない。寝ていても寝られない。朝になるのが待ち遠しかった。自分の家を見に行ったら、半壊で中はどろどろ。大きな家具以外はみんな流れていった。水道
はなく井戸水。母と3人で水を汲み上げ、きれいになるまで水を汲み上げてさらし粉を入れた。家中の洗濯をして消毒した。畳が重い。布団が濡れて重くて動かない。
 隣の人が「ようけ死んだやろな」と言われたが、氏神さんのところに住んでいた先生が濁流で屋根の上に逃げたが、子どもが滑って波にさらわれ、乳飲み子も長時間雨に打たれて背中で亡くなった。奥さんはしばらく負ぶっていたが、氷をしょっているようなものでなくなく下に降ろして波がさらった。お宮さんに行くと、憔悴しきった先生。木にしがみついていたというが、まっくら2人きり。
 父が四日市に務めていた。悲惨な様子を見てきて死んでいるのではと帰ってきて、助かっていたとものすごく喜んでくれた。
 台風にあったことで逆に強くなった。近所づきあいの大切さが分かった。立ち向かう強い心も持てた。人の温かさも知った。ものを大切にしていくようになれた。私にとっては貴重な体験であったと思う。

鳴川まさえ(当時中3)

 数年前までは歩いて5分の海は大変きれいで絵に描いたような白砂青松。名古屋からも海水浴に来る。優しい、遠浅の海があんなに荒れるとは思わなかった。家に早く帰れたのがうれしく、早く寝る用意した。全く無防備。犠牲者に寝間着姿の人が多いというのはあとで聞いた。水の勢いはものすごい、勝手口から水が入ってきたときには手遅れ。あっという間に床の上にはい上がる。あたふたと2階に駆け上がるのが精一杯。助けてくれというかすかな声が風雨に交じって聞こえるような気がしたが、雨戸を押さえていてどうしようもない。それまでに3度水難にあい、これで終わりかと思った。水が引いた階下に降りて胸のところまで竹の枠だけ。家具は泥だらけ、床も泥だらけ、玄関の引き戸がなくなって魚屋の冷蔵庫がこんにちはというようにそこにあった。何もかも使い物にならなくなった。5年前にリストラに会っていて経済的に苦しく、さらにどん底。進路決定の時期でもあった。ささいなことだが、母の写真が全部ダメになったことが思い出に残っている。自分を責めてもしょうがない。知り合いの中には、「なんでやねん」と不思議がるほど、せっせと2階にものを上げていたという。親戚の家で帰れなくなり、翌朝帰ったら家が流されていたという。さかのぼると、母が東京で方向に出ていて、脚気で実家に帰り、翌日に関東大震災があったという。天災とか人災にかかわらず、生死を分けるのは、大きな力があるのではと感じる。生かされていることを忘れて自然に逆らうと、自然が猛威を振るうのでは。
 泳ぐとヘドロや重油がくっつくようになっていた。そういう怒りではとも思った。今は美しかった海は一部の人の記憶にしかない。堤防が立ち、埋め立てられて工場になっている。言いようのない悲しみ。友だちだったから。さまざまな試練をうけた。災害に対する備えは謙虚な人になることでは。戦争やいじめも同じことなんじゃあないかなと思う。「災害は忘れたころにやってくる」に付け加えて、まちがいなく神の恵みを忘れた時にやってくると思う。

冨岡きょういち(当時38歳 工場に当直中にあった。)

 四日市の塩浜で精油所勤務していた。その夜、シャットダウン、定期修理で工場が1ケ月止め、従業員はみんな帰っている。当直と守衛だけ交代で残る。台風が来るのがラジオでわかった。すぐ停電になると思ったので、昔の海軍時代に鍛えられた「荒天準備かかれ」という命令を自分で気合いを入れた。とんでもないミスだったが、1階の事務室が総務会計労務。中が水浸しになると思ったので、引き出しを机の上に載せて
いった。やれやれと思ったら水が入ってきた。水が引いてから下に降りたら、机のバランスが悪くなって全部書類が流されていた。大失敗。今初めていう。東洋最大の精油所だった。バスも乗用車もダメ。消防車は動けるので、組合員の家に走って出た。近鉄の塩浜の前を回って走ったら、空き地と道路が水浸しで分からなくなっていて、消防車の助手席に乗っていて、運転を間違って横倒しになって放り出された。真横に落ちたから助かったが、悪運が強かった。富州原の社宅には私が1週間前に入っていた。堤防やられたが、天井と柱しか残っていない。もう少し住んでいたら、家族も愛犬「クロ」もやられていただろう。

−−貴重な体験の中で「荒天準備」?
 海軍航空隊で航空機に乗っていた。海の上を飛ぶときに、嵐が来そうだぞいうこと。来るぞではない。早くから飛行機をしばっちゃう。格納庫はそんなにないので。全員で取りかかる。何でも最近は基本がマニュアルになっているが、慣れるとマニュアル通りではなく、裏マニュアルにもなって手抜きして東海村の事故になる。そういう危険性がある。指さし確認を未だにやっている。海軍で覚えた。声を出して計器を見ながら確認する。速度と風を確認する。きょうでもここにくるときにさんざんまよったが、「対向車あり」「横断者あり」と声を出してきた。女房は何をやっているのかというが。基本をしっかり身につけ、応用動作は手抜きはダメ。


消防救援隊

 今までの方は直接災害に遭われた体験談。私は救援隊。救援隊は、比較的被害の少ない亀山で消防団、消防職員で結成。三重県消防協会が主として呼びかけた。亀山の消防団長が副会長をやっていたので、被災地の手助けをしなければと。1週間か10日後に現場に行ったと思っていたが、記録を見ると10月26日から救援が始まっている。1カ月経っていたのを初めて知った。
 流木や家畜が浮いていた。一月建ってもあのままで地元の方が手が着けられない状態だった。ゼロメートル地帯なので、水も相当たまっていた。流木が5キロぐらいそのままになっていると聞いた。亀山から川之江村に行ったが、行くまではバス。案内されて、徒歩で現場に行った。行く途中にも所々ここで亡くなった人を焼いたということをきいた。普通なら盛大に弔うのだろうが、道ばたで亡くなった人を焼いたということは家族の方も忍びないだろうと思った。水に浮いていたり、打ち上げられている流木を、鳶口で引き寄せて整理した。

−−教訓は?
 東海地震も出ている。備えあれば憂いなし。どれだけが備えかは難しいが、対策を立てておく。訓練をしておくことは大切かと思う。阪神大震災や日本海の油流出があるとボランティアが行かれて協力されており、非常に心強いが。私も、気の毒やなあと救援隊の一員として参加したが、私が救援隊を作ったわけではないが。少しでも役に立ちたいという気持ちで。

橋本あきら(自衛隊)三雲町の語り部

 昭和34年は台風の非常に多い年。京都の大久保に連隊があった。鞍馬山で道路の土砂崩れの復旧に出動した。淀川堤防の外側の危険個所に土嚢積みの修復をした。かなり慣れたと思っていて、のんびりしていたら9月26日が台風。天気が良かった。出頭命令はおかしいなと思ったが、家族を残して向かった。桑名も四日市も知らない。大津から琵琶湖を抜けて四日市に入った。水がひたひたしている。「これが災害か」と言って、桑名まで来た。桑名高校に陣取って、伊勢大橋を超えて現地を見に行った。一面の海で堤防が切れていて、一体我々は何をやったらいいか。28日に現場に行ったが、これは水運びではとピンときた。小舟に水をいっぱい入れて積んだ。漁師のボランティアもいたが、水深が浅いので発動機を使わずにこいでいった。「おーい。水くれ」という声。2階の窓の手すりにくっついて、2人で押さえて水を渡した。バケツ、ナベ、やかん、洗面器で配った。もっとくれという人もいたが後ろ髪を引かれる思いで去った。小学校の校舎も途中が真っ暗でワニか何かも出てきそう。台風で死体を燃やす煙も上がっていた。2−3時間で帰ってくると、上陸すると牛や馬らの死体でいっぱい。どろどろの土。2,3日してから堤防の決壊場所の修復にかかった。何から手を着けて良いか分からない。最初はくい打ち、土嚢積み。最後まで締め切れずに10月10日に後続に託して帰った。木曽川の堤防がいつ締め切られたか知らないが、最近経験したことは、三雲町が13号台風で決壊して港が流出した。その時の人の証言、その当時は土木工事は雑だった。下は水で壊れていく。当時修復された堤防はしたがどうなっているか分からない。そういう心構えを持って災害に対して準備して欲しい。

     −−教訓は?

   さいがい、さ=さわがず、あわてず、い=いつも周到な準備を
   して、が=(どんなくるしいことがあっても)がんばって、い=(さ
   いごまで)生き抜いていこう

田端

 国家的に前例のない災害が起きた。4月にご成婚でミッチーブーム。伊勢神宮に来られた。広報課=当時の県民室にいた。皇太子ご夫妻のご参拝でテレビが神域に入る。その世話で大変忙しかった。
 夏休みもすんでやれやれ、職員旅行に飛行機で金沢に行こうといっていたら、昼前に警報が出た。警報の割に天気がいい。土曜日だし、遠いのは帰って良いと松阪に。疾風の台風が駆け抜けて、開けましたら良いお天気。ラジオで情報を聴いて夢中で出勤した。
 県庁から200−300mの近くの橋のところで「やっとついた」という気持ちしか覚えていない。多分歩いてきたと思う。それからは、県庁中ひっくりかえすような状態。なるべく生々しい災害の写真をなるべく早く取って官邸や中央官庁にアピールするのが一番の仕事。下のものは大変な災害地に派遣された。行き帰りは自衛隊のジープに便乗している。私は、櫛田川、雲出川、名張川を担当。飯高町に行くのは松阪土木事務所のジープで途中まで行けるが、河原を歩くような県道を編み上げの革靴で歩いた。この前、櫛田川の写真を取った現場まで来るまで図ったら25キロあった。ジープ降りてから約30キロ、日帰りで写真撮って帰った。往復60キロ近く。つくづく、俺は学生時代長距離やっていてよかったなと思った。その後、雲出川に125ccの原付で行ったが、途中で決壊して行けなかった。名張川は、下流が木津川になる。合流する地点の橋が落ちていた。名張までも自衛隊のジープで市街地からは近鉄の鉄橋で渡った。線路を歩いて行った。広報の立場で取材した。
 ともかく、道路は寸断され、鉄道が不通になる。最後は歩くしかない。それだけは確実にそういう事態になる。いくら便利になっても、ヘリ以外まず歩くしか手がない。究極の交通手段。確実にそうなる。土木で忘れていた中小河川の氾濫も伊勢湾台風の教訓。大河川はそれなりに管理されているが。このごろは、都市化で降った雨の行き場がない。田圃が遊水池だった時代でなくなる。一挙に氾らんする。

中西・日赤看護婦

 現地に船では行った。救護活動は日赤の大きな柱なので訓練は受けていたが、水害、地震でも違う。正しい情報をキャッチするために携帯ラジオを持っていた。翌日に第1班が出張した。道路が寸断されているので大きな船で行きかけたが、途中から小舟に乗り換えて、木曽崎と長島町に来たときには、鶏や豚の死骸が浮いていた。水の中を見たら、稲穂や農作物が沈んでいた。それを超えて上陸した。救護所の開設場
所を探して設置した。まず、医師1、看護3(外科、内科、助産婦)、事務1で行く。自分の生活のことはそれ以前にきちっとして、仕事に専念するというのが赤十字。救護所を開設してもぼーっとした顔でうろうろしている。ショックで意識がもうろうとしていたようだ。救護員の水筒はお茶じゃなく、お湯か水をいれる。薬を飲んでもらうために使う。診療所を開設した。流木を集めて荼毘に付した。巡回して家庭を訪問した。傾いた家では窓から入って安否確認したりした。妊婦さんが異常を訴えられたが、出血、腹痛の症状は緊急入院にならないよう、安静の必要があったりもした。
 経験を積んでおく。準備をしておく。より便利なものは活用すればいいが、当時は缶詰がやっとだった。最初の3日間がもっとも大事。泥水とか飲むと伝染病の恐れもある。水分補給は気を付けて。救護活動の長期編成、交代も考えねば。自動をまとめてあずかって救護班が行ったこともあった。対策についても考えておく必要がある。

伊藤(長島町防災係長)

 当時の役割は、消防防災係長だったので、災害対策本部での命令の地域への伝達、地域への伝達、消防団への伝達、水防活動の本部への連絡をやっていた。今のように電話が豊富にあるわけではない。町内で有線電話が7−8カ所しかない。台風で切れたら連絡の方法がない。決められた方法、時間で人手で連絡をとっていた。大きな災害だったが、あらかじめ大きな台風だと聞かされていたので、消防団を町内各所に配置して堤防の警戒、連絡の役割をもたせて頑張った。
 周囲はどこが切れても洪水になる。今はスーパー堤防で安心できるが、当時の海岸線は5.5m、地盤沈下も知らなかった。今の町内で、最高水位が庁舎前や各地域に掲げている。長島町でも2階建てのうちの天井まではいる。2階以上にいないと助からないのが現状。それを前提に考えねばならない。今はテレビで詳しくなっているが、防備する方も準備できるが、当時は大きいということは聞いていたが、町内全部に堤防が決壊するということは土壇場まで期待ばかりあった。現実にあのような大きな災害となった。対応が十分でなかった。
 そういうことを頭の中に入れて、当時のことを申しあげると、現在の長島温泉の跡地?、私の出身なので6時ぐらいまで詰めていたら、土嚢の材料もないと、3輪自動車などで荒縄とかますを積んでいった。堤防上では15分で行くところを、農道を通っていった。のりの材料がたおれていて1時間以上かかった。消防団だけでなく、地元が協力してくれた。輪中が一つの島。悪いところはみんなで阻止する。作業を進めていたが、土嚢や石ころも海に吸い上げられる状態になってきた。これではひどいと、堤防が切れるので本部に知らせると、作業を止めて高台に避難しろ。町内、堤防より高い家はない。何かにつかまらないと吹き飛ばされる。当時土地が古かった高台にほとんどが集まった。1件の高台にあった雑貨屋の電話。なかなか聞こえない。堤防が切れる、早く避難させろと言った。どこの神社でもお寺でも鐘を鳴らすことになっていたのが慣習。本部が海岸から4キロ離れているので、危機感はなかった。堤防が切れるのは本当かと疑う。その間に電話が切れた。どんどん避難してくる。各家庭は避難するようにといって支所に行った。ロープにつかまりながら、ローにして堤防にきたら堤防を超えて流れてきていた。もう今しか通れないと来たら、大きな電柱が堤防に横倒しになった。車を捨てて、子どもは大人の腰のひもにぶら下げた。もたもたしているうちに大きな波に浮き上がって流されてしまった。

−−何を大事にしなければならないか
 直接住民に対応するので当然だが、警報の段階できちんと戸締まりさせ安心させ、避難の指示もきちんと、老人、子どももできるだけ早く。2階以上の建物は全部避難所になっている。温泉のお客さんは早く帰す。携帯ラジオなど必ず持つ。単独で行動しないで、複数で。どんなことに直面しても、冷静に考え、いきり立って飛び込んでいかない。大勢の知恵を集めてロープをつないだりして助ける。2,3日の食糧は自分で持っておく。生き残ったもの通しが知恵を持ち寄って生き残る。土壇場の時は独自で考えられるよう、各家庭で対応してもらえればと思う。人ごとに思わず、もう一度自分の家だったらどうしようと考えておいて欲しい。

全体会議 第二部


パネルディスカッション

「市民防災力の未来〜次世代に何を伝えるか〜」

コメンテーター: 北川 正恭(三重県知事)
槙島 敏治
(日本赤十字社医療センター第四外科部長)
林 春男
(京都大学防災研究所巨大災害研究センター教授)
プレゼンテーター: 阿部 好一(大会実行委員長)

阿部

 近衛さんからはメッセージをいただいている。
 消防学校の災害慰霊碑15人が伊勢湾。それも資料に入っている。
 私から最初に問題提起をさせていただきたい。大きな災害は社会の大混乱につながる。新しい時代を見つめ直すきっかけも与えてくれる。阪神はまさにそうだったんだろう。率先市民、被災者は決して助けられるだけの存在ではない。一日でも早く、一人でも多くの人が助けられる側から自律する側に、助ける側にも回ることが復興の原動力ではないか。
 40年たって、ハードの対策は進んだが、伊勢湾のようなことがないというとノーだ。行政の対策も向上しただろうが、大きな災害が来たときにはたして機能できるか。行政も市民と考えるべきでは。72時間は行政も何もできない、皆が被災者もあり得る。行政だけで危機管理に取り組むのではなく、地域全体で一人一人が取り組まないと。
 どう取り組むのか。市民と市民が持っている多種多様な持ち味を誰がどうつなぐのか。地域の結果をどう結集するか、個々にたどり着きたいテーマ。北川知事から三重県、槙島さんから日赤で全国、林さんから各国の切り口から。

北川

 知事として遠くから来られた方も歓迎したい。自宅はすぐここの西。小さいころからいたところ。
 行政がいろんなことをしてきたが、知事を英語でいうと何というか。ガバナーというが、統治する、治める。これからはサポーターとかプロデューサーとかディレクターとかいろんな言い方があってもよい。官の役割がどんどん変わってきている。多種多様という言葉があったが、県民の方々の行政需要は多種多様、供給側も多種多様にならねばならない。その時に税金をいただいて公金で運用するので平均的な運用になる。そのためには行政が小さくなり、民間の企業やNPOが動きやすいようにサポートすることが行政の仕事になれば多様な行政需要に対応するのではないか。災害時には多種多様の供給ができるような容易が必要ではないかと4年間、県行政をしてきた。今日は率先市民サミット。率先してやろうという。すごいなあ、ここまできたなあ。三重でやっていただく。伊勢湾40年もあるだろうが、三重を認めていただいたのでしょうから私はうれしい。協働「コラボレーション」でやっていければ。来年は阪神、再来年は島原でやっていただければ。
 伊勢湾台風の時、学校休みでうれしかったが怖い思いをした。県予算の13倍をかけて復旧した。手続き、コーディネーターまだまだだったろうが、でも官民が一緒に復興した。桑名で伊勢湾台風の行事をやった。ハード面、ヘリや防災無線などは県としてもかなりできた。阪神大震災で、地元の方や民間の方が力を合わせれば死亡者も復旧も早かった。自主防再組織が三重は43%だったが、それをやろうと現在64%。2001年まで80%までなんとかしようと。動き始めてから、ケアの問題も大切。県も力を入れたい。皆さんにお力添えを得たい。官の限界を自ら知ってみんなの力を借りる。
 地域社会をみんなでやっていく。被災者ももっと困難な人を助けるためには、コーディネーター力、調整力が必要。コーディネーターがいなければならない。官がついつい専門家だったが、民でもコーディネーターとして。県も林さんのお世話になってやっている。民の力がうんと発揮できるように。直後から2年3年と力を発揮できるようにもっていければ。

阿部

 コーディネーター養成はのちほどまた触れたい。世界中を飛んで歩いているのが槙島さん。指導者を指導する立場。トルコ、台湾、アルバニアなど多彩な経験。日赤という特別法人としての役割にも触れて欲しい。

槙島

 演題に座布団があって落語をやらねばならないかとぎょっとした。日赤についてお話ししたい。よく知ってらっしゃると思うが、よく理解はされていないのでは。
 日赤病院の外科医だが、日赤病院、血液センターが浮かぶだろうが、日赤の本来の仕事がある。病院も血液センターも本来目標から派生した一つの形。日赤は日本に1つしかない。1国1社。本社があって各県に県支部がある。北川知事も三重県支部長。政府と近いが独自の方針で活動している。
 ジュネーブの赤十字博物館に掲げてある天幕。赤い十字と赤い三日月。イスラムは十字架を嫌うので。スイスの国旗をひっくり返したもの。スイスの国旗は歴史的にはキリスト教の教義から発展しているので、赤い三日月、赤新月社、トルコやイランなども。
 7原則。ジュネーブの国際ができ、各国ができて加盟する形で成り立った。赤十字の行動原則。人道、公平、中立、独立、奉仕、単一、世界性。人道なんて臭い言葉を使っているところはあまりないのでは。人道を中心にした7原則で働くのは赤十字しかない。覚え方がある。「じんこうちゅうどくほうたんせい」と覚える。日赤病院に行って医師や看護婦に7原則を知っているかと聞いても、大抵知らない。支部の人は違うだろうが。
 人道を発揮するために、公平、中立、独立の原則で。そこに必要なのは奉仕の気持ち。堅い話で恐縮だが。各国の赤十字、国際赤十字には2つある。ICRC赤十字国際委員会。ペルーの人質事件の時に仲介した。IFRC赤十字・赤新月社連盟がある。これが災害時に活動する。各国の赤十字は互いに独立しながら活動する。
 ある場合には委員会、自然災害には連盟の仕事として出ていく。私は外科医としても救急医としても活動している。災害時の医療班を送ることもやっている。派遣される医師、看護婦の教育もやっている。ハード面、備品の調達もやっている。私自身も災害があればすぐ飛んでいく立場でもある。国内でも海外でも、朝電話があって夜出ていく。鞄にはパスポートが入っている。
 災害の当たり年、コロンビア、トルコ、台湾。コソボ難民もあった。94年のルワンダ内戦で難民百数十万人。3年後に一斉にルワンダに帰国する。決めるとさっと動く。1−2週間で。97年の帰還難民。トラックに乗ったルワンダ人ボランティア高校生中心。国境地域で難民に食糧を配ったり医療を手伝う。報酬はゼッケンと昼ご飯だけ。診療所での診療風景。高校生で片言の英語がしゃべれる子どもに協力してもらって治療する。ご飯だけが報酬だが、カレーとかだった。私たちは非常用のビスケット
を食べていた。うらやましい(^_^;)。
 コロンビアの地震救援。コロンビアの赤十字の制服はブルーで遠くから目立つ。レスキュー隊も組織している。ボランティア集めて研修し、災害時にはレスキューをしてもらう。日赤も救護服があるが、日赤の人間しか着ない。ボランティア用の制服を作っているところもあるが。コロンビアは職員もボランティアも同じ制服を着ていたのには驚いた。
 国外で日赤の救護服を着たのは始めたが、赤十字が小さく、軍服に色が似ている。襲われるぞとも言われた。前日に暴徒に襲われた倉庫で援助物資を小分けして配る準備をしている。象徴的なボランティアの方を拝見した。中年のおじちゃん、言葉がしゃべれない。各県からボランティアを組織して順繰りに送ってくる。1日二百数十人。言葉のしゃべれない人、やっていけるのかと思ったが、ものすごい明るい人。こまめに世話を焼いてくれる。自分の仕事はコピーをする仕事だという。実際、私が使うとうまくいかない。彼がやるとうまくいく。若い人だけでなく、障害を持っている人もきて働く。感動した。
 若い人だけじゃあない。ボランティアをポッといってできるかというとそうじゃない。すぐ活動はできない。地元の赤十字やいろんな人の援助があって初めて活動ができる。働きやすい環境を整えたりすることが必要。日赤でも奉仕団以外に6800人の防災ボランティアが育っていて、活動のサポートをしてくれる。力を集めて組織をして割り振る、コーディネートする。コーディネーターが本当に必要とされていることを申しあげたい。

阿部

 米国やトルコなどをみて、日本の進むべき方向は何かという話を



 素因と誘因。素因はその人なり、地域なりに備わっている原因。例えば伊勢湾という地形や、四日市のようなコンビナートとか。それを社会の防災力ともいう。誘因は災害を起こすきっかけ、天変地異、外力。
 外力が社会の防災力を上回ると災害になる。一生懸命防災をしていると思っていたが、沢山の人が生活していたら弱くなっていたのが今。
 外力への働きかけ、天変地異の予知すること。天変はできるようになったが、地異はまだ。二つの攻め口。被害を出さないように、抵抗力を高める防災。多少の被害が出ても早く戻す、回復力。
 抑止力と軽減力がどう組合わさるか。横軸は外力、縦軸は頻度。どう守っていくかとなると、しょっちゅう起こることは無被害にしたい。でもどこからか超えたら無被害ではなく、被害軽減の考えで行かねばならない。
 戦後の災害死亡者の経年変化。59年の伊勢湾以降、大きな災害がほとんどなかった。ラッキーというと、土木の専門家はこれをみろという。効果が上がっているという。災害が過去のものという印象を与えていた。それを覆したのは阪神。
 日本の状態は、他国と比べるといい段階にある。大部分の国は、抑止力も軽減力も低い第1段階。トルコがなぜそうなるか。災害だけにかまっていられない。その国が直面する危機の一つ。そのためだけに専門家は持てない。災害には中心的な力を置いていない。第2段階になると専門的に考えようとする。そこで日米は違う行き方をした。日本は被害抑止力が高いので、阪神前はほぼ完璧ではと思っていた人もいる。米国は、災害を考え始め、多少弱いことが分かっているなら、それをどうやって軽減できるのか。誰が主役にならないといけないのか。危機対応の専門家は軍隊。だから、特に災害の専門はいらない。
 日本やアメリカは、防災の専門家を持ち始める。日本はエンジニア等。アメリカは、災害対応の専門家。防災なら防災だけ。その両方の国が同じ問題を抱えている。
 日本の抑止力は十分ではない。軽減力は誰が作れるのか。主役は市民。米国は沢山の人が亡くなる災害を受けていない。それでも国家の経費がべらぼうに増えている。国家財政を逼迫させると何とかしなければと次のステップを考えている。専門家だけがやる防災は限界。市民や企業を巻き込んだプロジェクト「インパクト」として、町単位での先進的な試みをやっている。僕が見ている限りでは、まちのなかの人々の連合をしようというもの。地域ベース。同じような志を持つ全国ベースがこの場。どち
らも市民の力を認識してその力をどうやって伸ばせるか。世界最先端の試みだと思う。全世界に広く知っていただく試みをしたいと思う。

阿部

 林さんからいろんなことを学んだが、重川さんからも学んだ。ご意見あればコメントを

重川

 今、林さんがおっしゃった軍と一握りの専門家と市民という話があった。国際防災の10年。日本が提案して国連で決議をして2000年までの10年。最終年のシンポジウムがあった。中国やネパールの人も出てきたが、世界各国の専門家のネットワークを結ぼうという提案があった。専門家って誰だという指摘があった。学者が防災の専門家か。本当の専門家は、そういう知恵を具体的な対策に結びつける技術を持った人を専門家と言うべきではないかという意見が出た。話を聞いていて、市民、率先市民の方が、単に市民というのではなく、その中に専門家がいるのでは、その中に専門家になりうる人がいるのでは。本当の専門家をそのグループの中に作っていかねばならないのではと思った。

阿部 

 市民の価値観、ニーズが多様化しているとの話があった。コーディネーターは多様なものをまとめる資質を問われるが、県はどういう方向で養成していくのか

北川

 コーディネーターもこれまで官が囲み型でやってきたが、率先市民の中から出てきた人がだんだんコーディネーター、リーダーになってくる。その人から場所がないから貸せ、連絡するためにパソコンを貸せと、いうことにどうぞと県はいう。そういう感じではないか。私も情報公開を一生懸命やってきた。これまでは情報公開していないので、県庁が悪い、北川が悪いとかすぐいう。情報を非公開にしているからしょうがない。今度は協働しろと公開している。実際、三重を作るのは、知事でも誰でもない。県民そのもの。まちも自分たちで作るという主体的なところがないとダメ。
 阪神大震災でも主体的に生きれる組織が機能したところは、復興も早いし、ケアもあった。そういう意味でのコーディネーターがみんなの中から出やすいようなサポーターを我々がやる。

阿部

 重川さんは災害は人を裸にする。林さんは実力勝負だと言っておられたが



 少し補足すると。コーディネートするのは重要。一般ボランティアが一人一人は2泊3日とかが限界でそれ以上の消耗は無理。一定の力が継続しないと戦力にならない。ここのブツブツの要素をどう織り上げるか。防災のためでも、ほかの目的でも良いが。編むという能力が必要。災害時にはそういう力が短い期間や長い間にいろんな場面でいる。さまざまなニーズに柔軟に対応できる人をできるだけ沢山作りたい。外から来てではだめ。三重県が好き、私は松阪だ、四日市だという人を沢山作りたい。
 そういう人を沢山作りたい。みんなそうだけど、ちょっと先に行っている。そういう人を沢山つくる。知事は作ってやるよというかもしれないが、それではあてがいぶちになる。自分なりの自由なものを作る。プログラムを作る。それを県に持っていき、場所を貸せとかいう。要求だけではなくプログラムの実態を作ってこれを買ってくれと言うように示したい。今検討している枠組み、それは十分買ってもらえるようなものが織り上がるのでは。次の三重の特産品になるのではと期待している。

阿部

 勝手に指名すると、昨年北関東でいち早く動いたのがハートネットの吉田さん。所感を述べてもらえれば。

吉田

 ハートネット福島の吉田と言います。阪神の時に障害者やお年寄りを支援しようと作ったボランティア。阪神で学んだのはネットワーク。ハードなライフラインが切れても、切れなかったのは人と人のネットワークというもう一つのライフライン。
 そういうネットワークを沢山持っている地域集団は大丈夫だった。地域で、全国でやっていこうとした。災害がない県だと思ってきたら、昨年1000を超える世帯が床上浸水した。全国のVがコーディネーターを集め、そのノウハウが地域に伝わり、最後は白河市民でほとんどやった。ネットワークがすごく大事。
 もう一つなるほどと感じたのは、今まで公共は役所がやるものだと思っていた。水害では、役所がやるのは道路と側溝だけ。住んでいる家は役所が手を出せない。私は今でも疑問だが。私たちは小さな政府を選んでいるから、その部分は公共だけど制度では公共に入らない。誰がやるか。市内一円で被害が出ては隣同士の助け合いだけではできない。もう一つの公共をになうのはNPO。それを学んだ。NPOを支えるために、行政からの税制などの制度を我々が作って行かねば。ボランティア・NPOが手を組み、行政とも手を組む。私も悪口をよく言うが、一緒に仕事をするのが大事だとつくづく思う。

阿部

 島原の宮本さん、普賢岳で14団体の協議会を取り仕切っておられる。来年10年を迎える。

宮本

 先ほど話があった専門とか、コーディネーターとか、やっと分かる年月がたってきたかなと思う。災害が起きて始めたが、島原半島の1市16町に元もとネットワークがあったので発足できた。災害があったからできたのではない。既存の団体が通常からネットを組んでおくと、即対応ができる。地域の災害は、地域で対応する。地域性の中で市民活動しているひとが活動することで、継続ができる。阪神の時にいろんな組織ができたが、応援の部隊と、将来に渡って生活していく人と。ふるさとに、企業に帰ったときに教訓が生かされているかどうかが課題。災害でボランティアというと物資の仕分けぐらいしか脳裏になかった。散髪屋とかいろんな人が着て、技術を持っている。そういう人もボランティア。行政と被災者の架け橋的存在になった。
 いろんな人が支援に来るが、その受け入れを行政からボランティアにふられた。自分たちがやろうとした作業ができずに、ボランティアに来た人のボランティアをする事になった。それをやることで、行政が何をしようかとしているかと、被災者が何を求めているかがよく分かった。50団体で陳情の文章も緊急性と、将来性もあるとまとめ、5全総にのるようなことのある地域にしようというものまで出てくる。
 ボランティアのやりがい、被災者だけのことだけでなく、自分たちのまちづくりにつながる。日本で初めての国立公園である雲仙の魅力、森がある。それにやっと気づいた。あの赤茶けたところを森に復活させようと、高校生が植林をする。合併問題も安全で安心というキーで考えていこうとか。長崎の2010年の総合計画にNPOとかボランティアをサポートすることを重点プロジェクトに入れることができた。人間の生きる道筋を照らしてくれる。ちっちゃな団体が県政のスローガンに入れられる。災害にあった県が、災害にあっていないところに伝える。そういうネットが重要と思えるようになったことも災害のおかげ。

阿部

 災害が教えてくれたというが。



 学校で民主主義を教えてくれるが、生活実感はない。災害に遭遇すると当たり前が止まる。新しい秩序をつくりだす活動をやらざるを得ない。その中で自分たちの力を集めて動いていく。それをNPOやボランティアなどとよぶ。自由に暮らせた人がまわりを見たり、行政とつきあいをしなければならなくなる。勝手にできるわけではなく、人々の関係の中でやって行かねばならない。多くの人は「活かされている」という。災害というのは自分たちが社会の中でどういう存在なのか、実感として問い直させてくれる契機。全部お上が決めてやるのが良いのか、多くの人が気づき始めた。
 これまでは、政治の言葉では語られてきたが、災害を契機に、自分たちが街を作っていて、自分たちも発言しなければということに気づいた。行政は社会のための専従の職員だと思っているが、行政には基本の部分はやってもらう。それ以外の部分は自分たちに最後は責任を持つ。それがいわゆる公共性なのか。お上と下々ではなく、知事もおっしゃったパートナーシップ。横の関係。被災地の人は体験した。それをほかに広めたくてしょうがなくて、こうやって集うのでは。

阿部

 三重県の電気商業組合の小林さん。鈴鹿の60店舗を面にすると鈴鹿が埋まる。そこが防災を意識していくと面白い活動になるのではと始められた。

小林

 家電業界の支部長をやっている。5年前からケーブルがボランティア的に災害に対する会を作っていて、おじゃまさせていただき、力を入れて生活環境から地域の道路環境まできめ細かい調べをしていた。白子周辺の近くだったが、われわれは各店ではお客さんのところに気軽にあがれる環境がある。市民のために何かが起きたときに手助けとしてやっていけないかと、災害があれば実際に携わりたい。当時は名古屋にいたが、三菱重工からアパートに帰ったとたん、実感として鈴鹿川の水で堤防がひび割れたのを見ていたので、怖かった。体験をしないとやりづらいが、あったきもちで早急に対応する準備。こころと自分の準備、協力しながら手助けしたい。

阿部

 率先市民は防災だけでなく、21世紀へのキーワード、行政と市民の間の大事な役割ではと思うが。

北川

 1+1を3とか4にするには、民間と行政がたえず考えないと。林さんは良いことが言ったが、どうだ県、安いから買えといったが。今までは官は民を全く信用していない。国さえ見ていればよかった。県民なんか一切見なくてもよかった。今、民と官が大激論をする機会が増えてきた。「指導助言」という言葉が変わるはず。官と学もそう。4つの力を合わせると10や20になる。上手くコーディネートすると三重県は一流県になる。

阿部

 ほんとうは会場のご意見を聞きたかったが、言いたい方は交流会で。最後に皆さんからコメントを

槙島

 こういう集まりはあるが、たいてい副知事とか助役があいさつを代読する。ここに一緒に座って話すのは、もう官と民の協働ができている現れ。抑止力ではなくて軽減力。皆さんのお力を貸していただき、救護の手助けをしていただきたい。そのためにも救護ボランティアを行っていますし、お手伝いもしていただきたい。

阿部

 次の世代につなげていくことがひつよう。最後に林先生に。



 ここに知事がいたことが一番重要。このような場でボランティアという言葉は使いたくない。率先市民といいたい。最後まで知事がいて発言をして帰っていったと言うことが重要だった。今度は率先市民の力量が問われる。彼が納得するプログラムを提言する必要がある。皆さんが言っていたことだが、普段行っていることしか災害時にもできない。そういうことをするには、あらゆる機会を使って実施する場を増やしていくことが、できるだけ多くすることが、災害時にも強いネットワークができるの
ではないかと思う。

阿部

 人生を楽しむ。街の良いところをどんどん見つけて、ボランティア活動も楽しむことが長続きする秘訣ではないかと思う。今回こだわったことの一つに、できるだけ沢山の方々に参加していただき、それぞれの悩みや意見を、このような機会で裸になって意見を言う。会場のみなさんの声を聞けなくてすみませんでした。交流会の方で言っていただけたら幸いです。